Jazz rock guitarist Larry Coryell

rock to jazz

 1960年代にラリーコリエルは自身のバンド、フリースピリットを結成して活動を始めたのである。左の写真はその後のゲーリーバートンカルテット時代の物である。

 このゲーリーバートンカルテット時代にはジャズ界にロックイディオムを大胆に導入して!具体的には従来のジャズギタリストでは御法度のベンティングを超えた当時では強力なチョーキング!フルアコギターにファズボックスを接続してロックギター顔負けのディストーションサウンド!ワウペダルの使用に!ジミヘンドリクスと張り合う位のフィードバック奏法!モード奏法を早くから取り入れてフリーフォームなギターフレーズを弾いていたのである。

 尚、ゲーリーバートンカルテットはジムホールの、チコハミルトンクインテットはガボールザボの後継者として活躍していた。この時代は使用ギターはギブソンのスーパー400であり、この写真ではデアルモンドマイク、シングルタイプをビルトインしている。


1960year

  1944年に生まれたラリー・コリエルは大学時代にジャーナリストを目指してワシントンに行ったのであるがそこでギタリストとしてスタジオミュージシャンとして活動する事に成る。

 ここではあのバニー・ケッセルをして!彼の後継者と成り、その後後輩スタジミュージシャンからスタジオミュージシャンの神と云われる様になるのである。それと並行して自身のバンドであるザ・フリースピリッツを結成するのである。このバンドは1965年結成当時は世界最初のジャズロックバンドであった。

 この2年後にゲーリー・バートンのバンドにジムホールの抜けた後に加入するのである。これにジャズの帝王マイルス・デイビスは先を越されたと思ったであろう!と言うのはこの同じ時期にロック界ではあのジミ・ヘンドリクスがデビューする事が重なっているからである。この事によりマイルス・デイビスは自身のバンドに参加させるギタリストには口癖の様に「お前!ジミ・ヘンドリクスみたいにギターを弾け!」

 この後にチコ・ハミルトンのバンドにガボール・ザボの後釜に成るのである。

その後はソロ活動に移って行くのである。この時生まれたアルバムが名盤スぺイセスであり、マイルスデイビスバンドのパーマネントギタリストのジョン・マクラフリンと共演している。この流れがその後のギターディオのツインハウスやあのスーパーギタートリオに繋がって行くのである。

1970~

 1960年後半からのソロ活動から新たに自身のバンドであるイレブンスハウスを結成する事になるのであるが、ライバルのジョン・マクラフリンがマイルス・デイビスバンドを辞めて自身のバンド、マハビシュヌ・オーケストラを結成しているが、このバンドがバイオリンがフロントに入っているが、イレブンスハウスはトランペットがフロントであり、この辺はラリー・コリエルはマイルス・デイビスのバンド形態に近ずけたと言えるのである。この当時のライブではオープニングにはアコースティックギターソロでその後にギターディエットのツインハウス、そしてイレブンスハウスと進行して行く事になる。そしてスーパーギタートリオを結成する事になるのであるが、当初はラリー・コリエル、ジョン・マクラフリンそしてクラシック界からクラシックギタリストのジョン・ウイリアムスが参加する予定であったのであるが、ジョン・ウイリアムスのスケジュールがクラシックギター・リサイタルに自身のロックバンド、スカイが絡み参加出来なくなる。そこで急遽フラメンコギタリストのパコ・デ・ルシアが参加する事に成る。

 ここでのラリー・コリエルはアコーステックギターに持ち替えて、またギターテクニックもガボール・ザボからレニー・ブローのギターテクニックである所謂レニー・ブロースタイルと言われるパープハーモニックステクニックを大胆に導入している。

1980~

 この1980年代はラリー・コリエルにとっては変革の時になる。1970年後半からアコースティックギターを弾いているがこの時辺りからアコースティックギターの比重が大きくなるのである。

 初来日以前はアコースティックギターはロプリンジーを使用していたが、初来日直前にはオベーションにスイッチしていて確かカスタムレジェントを使用してその後には、あのスパーアダマスに持ち替えて演奏して自身のモデルの様であった。


 彼のバンド遍歴は以下の通りである。

フリースピリッツ

ゲーリー・バートンカルテット

チコ・ハミルトンクインテット

トニー・ウイリアムスライフタイム

マイルス・デイビスバンド

チャーリー・ミンガスバンド

ハービー・マン

ソニー・ロリンズバンド

イレブンスハウス

ツインハウス

ステファーヌグラッペリバンド

スパーギタートリオ

その他ソロ活動等

スタジオミュージシャン



 上記はラリー・コリエルがロプリンジーを弾いているところであるが、ヘッドデザインの違いが確認できるが粗マーチンD-28と同様である事が分かるのであるが、私が音を聴く限りはどうもネックの仕込み角が下がっている所謂竿下がり状態である!即ちこれに因り高音弦の音質が変化していてハイポジションに於いてサスティーンが増している。

 ラリー・コリエルは1970年代後半辺りからアコースティックギターを弾く機会が増えたのであるが、以前から弾いていたが転換期は1970年に発表したアルバム、Spacesに於いてジョン・マクラフリンとのデュオでレーヌのテーマを演奏している。

 恐らくは使用ギターは左記のロプリンジーであると考えられるのであるが、その仕様はマーチンのD-28と同様であると思われる。下記はオベイションのカスタムレジェントでスーパーアダマスが出る前に使用された。同時期にはエレクトリックギターはハングストロムで初来日ライブはこれ等のギターで演奏された。 


 ジャズ界に於いてロックイデオムを導入したのはゲーリー・バートンであるが、1967年発売のアルバム、ダスターからであるが、

ここに加わったのが当時スタジオミュージシャンでギタリストのラリー・コリエルであり、自身がリーダーのジャズロックバンドのザ・フリースプリッツからドラムのボブ・モーゼスと共にゲーリー・バートンカルテットに参加するのである。

 前記のジャズロックバンドのザ・フリースピリッツは1965年にデビューしておりジャズロックとしては最も早い物である。

 マイルス・デイビスが最初にギタリストをバンドに参加させたのが、アルバムのマイルス・イン・ザ・スカイでギタリストはジョージ・ベンソンであり、マイルス・デイビスが最初に声を掛けたのはジム・ホールである。がしかしジム・ホールはゲーリー・バートンカルテットを辞めてから自身のアルバムを制作して独立したばかりであった。ジム・ホールはマイルス・デイビスにジョージ・ベンソンを紹介するのである。これが1967年であり、アルバムのマイルス・イン・ザ・スカイの発売が1968年である。恐らくはマイルス・デイビスはこのアルバムの企画時にはゲーリー・バートンのダスターは聴いてはいなかったのではないだろうか?

 このゲーリー・バートンのアルバム、ダスターはそれまでのジャズサウンドから逸脱したロックギターが全面に出ておりマイルス・デイビスは「しまった!」と思ったに違いない。一足出遅れてしまったのだ!マイルス・デイビスはゲーリー・バートンカルテットに対抗する為のギタリストをチェックしたに違いない。この1967年にアルバムデビューしたロックギタリストがあのジミ・ヘンドリクスであり、アルバムタイトル通りに、アー・ユー・エクスペリエンス、!それまで誰も聴いた事が無いエキセントリックなサウンドが展開されておりこれにマイルス・デイビスが興味を示したと思われる!「コイツだ ! オレが探していたギタリストは!」と思ったに違いない!今聴いてもこのサウンドは衝撃的な感じで有り当時の最先端なエフェクターを使用していて、ファズボックス、オクタビア、フェイザー、ワウペダル等でこれ等は当時のスタジオエンジニアのロジャー・メイヤーが制作している。 オクタビアは当初ヤードバーズのジミー・ペイジにその使用を打診したのであるが、その奇妙なサウンドに対してはこんな物使えないと云う印象しかなかった様である。しかしながらジミ・ヘンドリクスはこのエフェクターを使用してあの名曲パープル・ヘイズを作り上げたのである。このジミ・ヘンドリクスの一連のアルバムの曲には従来のギタリストが思いも寄らない新たなる音作りサウンドメイキングがジャズ界の最先端に君臨するマイルス・デイビスをしてこの男だ!と言わしめたのである。